昭和四十八年八月二十二日 朝の御理解
御理解第六十九節
「信心はみやすいものじゃが、みな氏子からむつかしうする。三年五年の信心では、まだ迷いやすい。十年の信心が続いたら、われながら喜んで、わが心をまつれ。日は年月のはじめじゃによって、その日その日のおかげを受けてゆけば立ち行こうが。みやすう信心をするがよいぞ。」
信心はみやすいものじゃが、みな氏子から難しうする、という事は、信心は難しいものだと、初めから決めてかかっておるという事、そういう風に決めてかかっておる、それではいつまでたっても信心がみやすいものになりません。
昨日、美登里会の方達が25日のマル少の集いを、それをここの教会あげての行事にすると云った様な企画で、取り上げられて、それで、合楽の各会の方達がだし物を、と云う話合いが出来て、昨日は、脇殿の方で、民謡の様な踊りの稽古があっておりました。
丁度、その時、私はここで、ある方のお取次ぎをさせて頂いておりましたが、その方が、先日、無理に誘われて、天理教にお参りをした。
天理教と云う教えは、それはもう、ほがらかな、確かにもう御陽気暮らしと云うそうですが、もう実に陽気ですよ、もう、鐘太鼓入れて神様の前で、やはり踊りを踊る、〃あしきを払うて助け給え〃とか云うて、身振り手振りをしながら、もうそれがですね、もう実に楽しそうに、有り難そうに、もうこっちも、ちった知っとるなら、一緒に踊ろうかと云うくらいに有り難いもんだったとこう言う。
有り難いもんだったと云うより、あれならもう心の憂さも、苦しみも、あの踊っておる間はなくなってしまう位じゃなかったろうかと思うくらいだったと。
その話を聞かせて頂いて、向こうの方からレコードの音が聞こえてきまして、うちも賑やかでしょうが、やってますよと云うてから、はあ、どっからレコードがかかってくるじゃろうかと思いよりましたと、その人はたまがっておりましたが。
そんな事で私も感ずる事があってね、これは私もいっちょ、25日の日にはその踊りにかてて貰うて、踊ろうと思うて、習わせて貰ったら、まあ、10分位ではありましたけれども、踊って見ましたけれども、なかなか、もう見とりゃ容易かごたるけれども、実際踊って見ると、難しい、人が、右の手あげとるのに、左の手あげとる、人が前さえ進む時、後ろさえ進む、という様な風でですねぇ、やはり容易いものとは思われない、信心もそうです。
だから、その時も話した事です、なかなかうまくいかんな、信心もこの通りだよと、そんなら、昨日は、原さんやら、内田さんの様なお年寄りも、やっておられましたが、やっぱもう何時間か稽古しておられましたから、レコードに乗ってリズムに乗ってもう見事に踊っていかれる訳です、だから、本気で稽古しようという気になりゃ誰だって嫌いな者だって、本気で稽古しようと思ったらされる、出来る。
もう私には、性が向かんから、私には、そげんとは向かんからと云うてせんから、なお嫌いになるのであり、または、上達もしない、見たら、容易いごたるけれども、実際稽古する気になったら、そういうおばあさん達でも、覚えておられる様に、それは、私のごと、ちょいと中から入ったっちゃ、私は、そんな風で、人が右の手をあげとる時に、左の手をあげるというごたる風で、仲なかそろいません。
それで私も暫く稽古すりゃ、一緒に踊られる様になろうという風にです、やっぱり稽古するという気にならなければ、上達する筈は絶対ありません、だから今度は、覚えてしもうたらこげん容易い事はないと、先生格の田中さんが云うておられました。
私が間違いますけん、みんな大笑いななさいますけど、だから、初めて稽古するものには、容易いとは思われんけれどもです、稽古を、それを覚えてしまえば、こんなに容易い事はない、もうひとりでに手が動く、ひとりでに足が進んでいく、信心も、私は、今日、この容易いところという、信心を容易いもの、信心を楽しいもの、信心を愈々喜ばしいものにさせて頂かなければ、信心の上達はありません。
それこそ、10年と経ったらわが心を吾ながら祭れという程しにはなれれません、そんなら、皆さんが毎日こうやって、信心の稽古に通うて来ておられるけれども、本当に稽古に通うて来ておるという人は、ごく少ない、何に取り組んでおるかというと、おかげに取り組んでおる、苦しい事に取り組んでおる、稽古に取り組んでいない、教えに四つに取り組んでいない、その問題に四つに取り組んでいない。
私が、おかげを頂いて来たのは、私の信心が少しづつでも進んでおるとするならば、私の場合は教えにいつも四つに取り組んでおる、その問題に本気で取り組んでおる、ですから、殆どの人はです、一人相撲とっておる様なものですから、上達しないのである。
お参りをしても、おかげを頂くと云うおかげの事に取り組んでおる、だから、上達する筈がありません、心配に取り組んでおる、悩みに取り組んでおる、これではおかげを頂かん、四つに取り組まなければおかげを頂かない。
昨日、私は、ある方のお届けをさせて頂いた、もう大分長い間信心させて頂いておる、難儀な問題、だから、私は、自分の力でしようと思わずに、神様のおかげでさせて頂かんのと、私が云いました。 その為には、所謂教えに取り組まなければいけない、その問題そのものに取り組んで、難儀に取り組まずに、その問題に取り組むという事は、問題を通して信心の稽古をさせて頂くという気になりなさい。
変な表現ですけれども、女の人が一人で腰使いよるところを頂いた、いくら腰使うたって良いものが生まれる筈がありません、教えにぴったり四つに取り組んで、初めて良いものが生まれるのです、その事を私申しましたら、その方が本当にそうどころじゃありませんと云うてから、云うて、だから、問題は良いものが生まれるはずはありますまいが、それじゃ一人ですから。
教えに本当に取り組まなければならん、その問題を通して、難儀を通して、いわば教えに取り組まなければ、そこから、場合には、まあこれは限りなく美しゅうなりさえすれば、この問題は解決するという問題もある、汚い心があるから、問題は解決しない。
場合には、もう、ハイと兎に角、素直にね、まあ、素直にハイという気になりなさい、親先生が右というたらハイと云う気になりなさいと、その内容は様々です、そういう素直な心にです、限りなく美しゅうなろうという事にも、取組みもせず、只、おかげを頂かせてください、おかげを頂かせてください。
だからです、成る程、おかげは頂いても良いものは生まれない、良いものが生まれないという事は、力にも、徳にもならないという事、だから、信心ちゃ難しい、だから、難儀な時に、只、一生懸命参りじゃから、もう本におかげ頂かんならんけん参る、と云った様な参り方で楽しさとか、喜ばしさというものがあるはずがない。
良いものが生まれて来てご覧、その楽しみだけでも、いわばおかげを頂くだけではなくて、力が頂けれる、お徳が受けられる、もうその楽しみ、その喜びです。
云うなら、お互いは、我と取り組んでおる、おかげと取り組むその人は、ある支払いをしなければならない、それがなかなか支払いが出来ん、自分が支払おうと思うておるから、出来んのだと、私が、神様から支払うて貰いなさい、そん為には、神様に打ち向かいなさい、所謂、教えに取組みなさい。
「今日の御理解頂いて来たか」頂いとらん、私を永い間待っとって、御理解一つ頂いとらん、そげな事じゃ本当なおかげにならんよて、私が申しました、今日の御理解頂いて来たかと、只、待っとるだけ、そういう云わば事ではおかげにならん。
皆さん、一人一人に思うてご覧なさい、もう本当にその問題なら問題、難儀なら難儀を通して頂く教え、だから、その難儀に取り組まずに、その難儀を通して信心に取り組むという事なんです。
只、その難儀から開放されたい、おかげ頂きたい、そんなら金銭のお繰り合わせを頂たいというて、その事だけに取り組む、それじゃお願いするからおかげは頂くにしても、それではいつまでたっても、信心は容易いものになっていない、信心が容易いものになるという事は、教えに取り組むという事。
初めの間は成る程ぎこちない、信心のない生活、信心を元とした、教えを元とした生活、たとえば、踊りをあんまり好かん人が、踊りを習わんならんと云うのは、きつい様なもんです。
けれども本気で習おうという気になれば、誰でも踊れるのであり、しかも、そのレコードにあわせて踊るという事は、もう実に軽快な、もうそれこそ疲れも忘れる位楽しい、どうでしょうか、信心が楽しう、只、信心好きというのがあってですね、教えを守りもしなければ、力もないのに、只、信心が好きで参って来る人があります、まあ、それも悪い事はない、けれども信心の教えが身についてきて、踊りなら踊りが、次々ともっと難しいものが、こなせるようになるのが楽しみになって来るという信心。もうこげん容易かこつをどうしてそげん覚えなさらんとのと、そんなら師匠さんが弟子達を見て思うように、そんなら、覚えてしもうたなら楽なのです、自ずと手も足も動いて来る、心が躍動して来る、信心の稽古に通うてもそうです。
昨日、私がお取次ぎさせて頂いた、一人でしたって何も出来はせん、それは一人相撲だから、教えとしっかり四つに取り組んで、おかげを頂くから、思いもかけないおかげを頂くと同時に、これがお徳というもんだろうかと云う様なおかげも頂けれる。
自ずとわが心が我ながら拝めれる様になる、おかげを頂いていけれる、おかげを満喫していけれる信心の稽古が出来るのです、皆さん本気で………只、参ったり拝んだりする事だけが稽古じゃないです。 その問題を通して信心の稽古をさせて頂いて、だから、その問題のおかげで今度は、これだけの力を頂いた、今度の問題で、これだけの事が判らせて頂いた、という、所謂楽しみもある、それに、それの方には目を向けずに難儀の方にばっかり目を向けておるから、クーッとした顔せんならん、いつもイライラせんならん。
そして、ますます汚い心ばかりがはびこって、限りない美しい心というものは一向に出て来ない、もう本当にそうですよ、信心の稽古をそんなら限りなく美しうなる事だと決めてもいい、信心ちゃもう馬鹿んごと素直になる事だと決めてもいい。
だから、その本当にハイという素直な心に決めきるという事に精進するというか、もう限りなく美しうなるという事に精進するというか、それに本当にその教えに取り組んでおかげを頂いてご覧なさい、もう、限りなく美しうなる事が有難うして有難うして、もうこたえんごとなってくる。
そして、美しうならなければ、馬鹿らしかという体験が生まれてくる、きーたなかごと云いよるけんで、いつまでたったっちゃ、きーたなかごと云い続けんならん様な難儀な問題ばっかりが起こって来る。
今日、私は、信心は容易いものと、それを氏子から難しうする、と云うところだけを今日は聞いて頂いた、お互いが信心はもう難しいものにしてしもうておる、稽古しようとしないから難しいのです。 それでもおかげを頂きたいから、日参り夜参りをしよる、おかげ頂くばってん、おかげ頂くからこそ、参りよるだけの事、信心が判りよるか、信心の徳が、力が頂けれよるからお参りするという事になれば、もう愈々楽しい、有り難い、信心はね、楽しう有難う出来るところまで稽古しなければ難しい。
だから、踊りの稽古でも、ちょいとした踊りでも、ぶっつけには仲なかいかん、だから、稽古中はちった難しい、それで途中で止めては駄目、覚えようという気になったら、誰でも判るのが信心、誰でも稽古出来るのが信心、そして、信心ちゃこんなに容易いものと我ながら思われるほどしの心こそが、わが心が我ながら祭れる心だと思うですね。 どうぞ。